2006年 07月 07日
鬼塚 |
散歩の途中よく立ち寄る、隣村の鬼塚と呼ばれる径40m,高さ6mに及ぶ円墳である。
古墳の封土は周囲の畑から蚕食され、東西にわずかに古代からの面影を残している。
横穴石室は破壊され、頂に鬼塚と穿たれた碑が建てられていて、碑石・台石すべて古墳用材が使用されているらしい。なにゆえ鬼塚と呼ばれるようになったか承知しないが、江戸時代初期塚の岩が崩れ人頭よりはるか大きい髑髏が現れたと古文書にしるされていると言う。また近くに妙法寺と言う寺があり、1673~1683年頃移転したと言うが、その寺には運慶作の大日如来と弘法大師手つくりの地蔵尊が安置されていたと伝えられている。
この旧址周辺の畑から、黒曜石の鏃、土器、須恵器、奈良三彩、中国宋の青磁、江戸初期くらわんか片など、往事の暮らし、繁栄、大陸との交流を偲ばせる品々を見つける事が出来る。下段写真は平安時代の須恵器で薬壷と呼ばれるものの、蓋のつまみと思われる陶片である。いにしえの名もなき匠の技には感嘆するほかない。みなさんも散歩のついでに、土器掘りなどいかが。この地域は古墳が多いと言うより、古墳、遺跡の上に人が住んでると言っても過言ではありません。歴史のロマンが掘れるかも、かも。今日は七夕、古代人がここから眺めた満天の星の輝きはいかばかりであったでしょうや。
古墳の封土は周囲の畑から蚕食され、東西にわずかに古代からの面影を残している。
横穴石室は破壊され、頂に鬼塚と穿たれた碑が建てられていて、碑石・台石すべて古墳用材が使用されているらしい。なにゆえ鬼塚と呼ばれるようになったか承知しないが、江戸時代初期塚の岩が崩れ人頭よりはるか大きい髑髏が現れたと古文書にしるされていると言う。また近くに妙法寺と言う寺があり、1673~1683年頃移転したと言うが、その寺には運慶作の大日如来と弘法大師手つくりの地蔵尊が安置されていたと伝えられている。
この旧址周辺の畑から、黒曜石の鏃、土器、須恵器、奈良三彩、中国宋の青磁、江戸初期くらわんか片など、往事の暮らし、繁栄、大陸との交流を偲ばせる品々を見つける事が出来る。下段写真は平安時代の須恵器で薬壷と呼ばれるものの、蓋のつまみと思われる陶片である。いにしえの名もなき匠の技には感嘆するほかない。みなさんも散歩のついでに、土器掘りなどいかが。この地域は古墳が多いと言うより、古墳、遺跡の上に人が住んでると言っても過言ではありません。歴史のロマンが掘れるかも、かも。今日は七夕、古代人がここから眺めた満天の星の輝きはいかばかりであったでしょうや。
by yomezaka
| 2006-07-07 03:43
| 土器